ボッティチェリ「プリマヴェーラ」の作品解説:古典神話を題材にした世界的名画

ボッティチェリの名作《プリマヴェーラ》は、古典神話を題材にした大規模な芸術作品です。古典期以降の西洋美術では、このような大規模な作品は非常に珍しいものです。本記事では、《プリマヴェーラ》の意味と、ボッティチェリのもう一つの有名な作品《ヴィーナスの誕生》との関係について詳しく解説します。この記事を通じて、《プリマヴェーラ》の芸術的な価値を存分にお楽しみください。

目次

ボッティチェリの《プリマヴェーラ》:概要と背景

基本情報

作者: サンドロ・ボッティチェリ 制作年: 1482年頃 メディウム: パネルにテンペラ画 サイズ: 202 cm × 314 cm 所蔵者: ウフィツィ美術館

《プリマヴェーラ》は、イタリア・ルネサンスの巨匠サンドロ・ボッティチェリが1470年代末から1480年代初頭に制作したテンペラ画による大パネル作品です。この作品は木板にテンペラで描かれており、西洋美術の中で最も多く批評され、議論を呼んだ絵画の一つです。

作品の評価と名称

《プリマヴェーラ》は、日本では『春』や『春(プリマヴェーラ)』、『プリマヴェーラ(春)』などとも呼ばれています。この絵には古典神話の人物の集団が描かれていますが、具体的なストーリーは明確ではありません。春の成長と再生を寓話的に描いたもので、多くの批評家がその点を認めていますが、正確な意味については様々な解釈が存在します。

影響と背景

この作品は古代ローマの詩人オヴィッドやルクレティウスの詩歌など、古典文学やルネサンス期の文学作品を基にしていると考えられています。また、ボッティチェリの構想に協力したとされるメディチ家の詩人アンジェロ・ポリツィアーノの詩を表現している可能性もあります。

関連作品と収蔵

ボッティチェリのもう一つの大作《ヴィーナスの誕生》とは対の作品ではありませんが、同じ古典神話を題材にし、同じ所蔵先であることから、よく比較されます。両作品ともに古典期以降の西洋美術でこれほど大規模に描かれた例はほとんどありません。

制作と来歴

《プリマヴェーラ》はメディチ家の誰かに依頼されて制作された可能性がありますが、詳細な来歴は不明です。おそらく結婚式の贈り物として依頼されたと考えられています。作者のボッティチェリ自身はこの絵に名前を付けていませんでしたが、トスカーナ大公コジモ1世の宮殿ヴィッラ・カステッロに飾られていたこの作品を見た美術史家ジョルジョ・ヴァザーリが1550年頃に初めて「プリマヴェーラ」と呼びました。

収蔵状況

1919年以来、この作品はイタリア・フィレンツェのウフィツィ美術館に収蔵されています。

《プリマヴェーラ》の構成と描写

人物と構図

《プリマヴェーラ》は、オレンジの木立の中に6人の女性、2人の男性、そしてキューピッドが描かれています。西洋絵画の構図は通常、右から左へと流れるように動きます。この作品でも同様に、右から左へ視線を移していくと、「3月の強風ゼピュロスがニンフのクロリスを誘拐し、その後、結婚して神となった。クロリスは春の女神フローラに変身し、バラを地面に散らしている」というストーリーが見えてきます。

キャラクターの配置

中央には青い服に赤いドレープをまとったヴィーナスが立っています。彼女は他の人物から少し離れており、鑑賞者と目が合うように描かれています。ヴィーナスの背後の木々は、彼女に視線を集めるためにアーチ状に配置されています。ヴィーナスの頭上には、目隠しをしたキューピッドが弓を左に向けています。

左側では、3人の女性(三美神)が手をつないで踊っており、左端には剣と兜を持った赤い服のマーキュリーが、カドゥケウス(木の棒)を掲げて灰色の雲を指しています。

人物の相互作用

人物同士の視線や動きは非常に謎めいています。ゼピュロスとクロリスは互いに見つめ合い、フローラとヴィーナスは鑑賞者を見つめています。キューピッドは目隠しをされており、マーキュリーは背を向けて雲を見上げています。三美神の中央の女性はマーキュリーを見ていますが、他の二人は互いに視線を交わしています。フローラの笑顔は、この時代の絵画では非常に珍しい特徴です。

自然と風景

《プリマヴェーラ》には牧歌的な風景が詳細に描かれており、500種類の植物と約190種類の花が含まれています。そのうち少なくとも130種は特定されています。この絵の全体的な外観や大きさは、当時宮殿の装飾として人気があったフランドルのタペストリー「ミルフルール」(「千の花」)に似ています。

技法とスタイル

ボッティチェリの構図にはゴシック様式の影響が見られ、人物は画面前面に並べられています。絵画の底部は鑑賞者の目の高さかそれよりやや上に設置されていたことがわかっており、そのため平面が緩やかに上昇するように見えます。マーキュリーの剣とクロリスの手が他の人物と重なっていることから、彼らは隣の人物のやや手前に立っていることがわかりますが、全体としては遠近感があまり表現されていません。ボッティチェリが遠近法を使用しなかったことは、レオナルドの批判からも明らかです。

《プリマヴェーラ》の意味と背景

寓意と解釈

この作品の人物像については多くの解釈が存在しますが、一般的には「世界の豊穣が急増していることを示す精巧な神話的寓話」として捉えられています。ボッティチェリ自身は古典文学や哲学に詳しかったとは考えにくいため、絵の構成や意味を考案する際に他の協力者がいたとされています。

制作の背景

詩人アンジェロ・ポリツィアーノが制作に関与したとされる一方で、ロレンツォ・デ・メディチの側近であり、新プラトン主義の重要人物であるマルシリオ・フィチーノの影響も指摘されています。この絵は春という季節の進行を描いており、右から左へと読み解くことで、早春の風が成長と花をもたらす様子が表現されています。ヴィーナスは春の象徴として描かれ、左側にはマーキュリーが夏を前に雲を払っています。

象徴とテーマ

絵の中央に立つヴィーナスは、結婚の女神として描かれ、古典神話の象徴であるマートルの茂みの前に立っています。ヴィーナスは、貞操を表す三美神と共に描かれ、キューピッドの矢は中央の三美神を狙っています。これは、愛が貞操に影響を与え、結婚に至るという解釈が一般的です。

神話と新プラトン主義

この絵には、古典神話の「ヘスペリデスの園」や「パリスの審判」の要素が取り入れられています。ヴィーナスはマートルの茂みの前に立ち、春の象徴として描かれています。新プラトン主義者たちは、ヴィーナスを地上の愛と神の愛の両方を支配する存在として捉え、この絵はその愛の理想を描いたものとされています。

メディチ家との関連

この絵は、メディチ家のシンボルであるオレンジの木立や、ロレンツォの月桂樹、マーキュリーとヴィーナスの衣装に見られる炎の模様など、メディチ家に関連する要素が散りばめられています。マーキュリーは医学の神であり、イタリア語で「メディチ」とも関連づけられています。これらの要素から、ボッティチェリの神話画にはメディチ家に対する言及が含まれていることが伺えます。

《プリマヴェーラ》の源泉と影響

文学的影響

この絵に影響を与えた多くの文学資料の中で、最も明確なものは1893年にアビー・ウォーバーグが発表した論文です。絵の右側は、ローマの詩人オヴィッドが『ファスティ』第5巻5月2日に描いた春の到来を描いた作品から着想を得ています。オヴィッドの作品では、森の妖精クロリスが春一番の風ゼファーに追われ、花の女神フローラへと変身する様子が描かれています。

オヴィッドによれば、クロリスが花の女神フローラに変身した際、「それまで地球は一つの色しか持っていなかった」と語られています。この色は緑であり、ギリシャ語の緑を意味する「クロロス」がクロリスの名前の由来です。ボッティチェリがゼファーを青緑色で描いた理由もここにあります。

ポリツィアーノの影響

さらに、ポリツィアーノの詩『ルスティカス』がこの絵の構想に影響を与えたとされています。『ルスティカス』は1483年に出版されましたが、《プリマヴェーラ》は1482年頃に完成したとされています。そのため、ポリツィアーノが絵画に影響を与えたか、逆に絵画から影響を受けた可能性があります。

ルクレティウスの詩『De rerum natura』にも、この絵のインスピレーションとなったと思われる箇所があります。「春になるとヴィーナスがやってきて、ヴィーナスの少年、翼のある前触れは前に踏み出し、ゼファーの足跡を懸命に追う母なるフローラは、彼らの前に道を振りまき、すべてを優れた色と匂いで満たしてくれる」と描写されています。

視覚的影響と創造力

文学的な影響だけでなく、ボッティチェリの視覚的なインスピレーションも重要です。彼は古代の石棺や宝石、レリーフ、フィレンツェの工房で流通していた古典遺跡の素描など、さまざまな素材からインスピレーションを得ていました。これらの素材から、ボッティチェリは《プリマヴェーラの三美神》という芸術全体において最も個人的な肉体美の表現の一つを創造しました。

 

《プリマヴェーラ》の来歴

制作年と初期の所蔵

《プリマヴェーラ》の起源は不明ですが、ボッティチェリが1481年から1482年にかけてローマでシスティーナ礼拝堂の絵を描いていたことから、その後に制作された可能性があります。しかし、以前に制作された可能性もあります。1975年にロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチの1499年のコレクション目録が発見され、制作年の推定が修正されました。

1499年の目録には、この絵がロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチとその弟ジョヴァンニ “イル・ポポラーノ” の市営宮殿に飾られていたことが記されています。彼らはフィレンツェの実質的な支配者ロレンツォ・デ・メディチの従兄弟であり、父の早世後、ロレンツォの被後見人となりました。

初期の展示と評価

当時、この絵は大きなレトッキオ(精巧な家具)の上に掛けられており、上部はコーニスで覆われていたと考えられます。絵の下部は鑑賞者の目の高さにあり、現在よりも高い位置に展示されていました。同じ部屋にはボッティチェリの《パラスとケンタウロス》や大きなトンドの《聖母子》も飾られていました。

《プリマヴェーラ》はこれらの絵画の中で最も高価であり、180リラという値が付けられました。1503年の目録には、この絵に大きな白い枠があったことが記されています。

後の評価と展示場所

1550年に出版されたジョルジョ・ヴァザーリの『ボッティチェリ伝』では、メディチ家の別荘カステッロで《プリマヴェーラ》と《ヴィーナスの誕生》が展示されていると述べられています。1975年以前は、この二枚の絵がロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコの依頼で制作されたと考えられていましたが、現在では彼の結婚に関連した作品であると多くの学者が認識しています。

結婚式は1482年7月19日に予定されていましたが、母親の死去により延期されました。最近の研究では、ボッティチェリがローマから帰国した後の1480年代初頭に制作された可能性が高いとされています。

その他の説とモデル

古い説では、ロレンツォ・デ・メディチが甥のジュリオ・ディ・ジュリアーノ・デ・メディチの誕生を祝うために肖像画を注文したが、ジュリアーノの暗殺後に気が変わり、ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコへの結婚祝いとして完成させたとされています。

マーキュリーはロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコをモデルにしており、その花嫁セミラミデがフローラ(またはヴィーナス)として表現されています。また、ヴィーナスのモデルはシモネッタ・ヴェスプッチで、ジュリアーノ・デ・メディチがマーキュリーのモデルであるという説もあります。

 

■参考文献・https://en.wikipedia.org/wiki/Primavera_(Botticelli)

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