この記事では、20世紀最も偉大な芸術家の一人であるパブロ・ピカソに焦点を当てています。彼が初期の20世紀に視覚芸術の世界にもたらした革新とその功績について説明し、代表作である「アヴィニョンの娘たち」や「ゲルニカ」などに触れます。また、彼の多才な芸術スタイルとその作品が視覚芸術全体に与えた影響についても解説します。パブロ・ピカソに興味を持った方は、ぜひこの記事をお読みください。
【芸術の巨匠:パブロ・ピカソの軌跡と業績】
パブロ・ピカソ(1881年10月25日 – 1973年4月8日)は、スペイン生まれでフランスを拠点に活躍した画家、彫刻家、版画家、陶芸家、舞台美術家、詩人、劇作家でした。
20世紀の芸術界に大きな影響を与えた彼は、キュビスム運動の創設者として知られています。また、アッサンブラージュ彫刻の発明やコラージュの再発見など、幅広く創造的な活動を行いました。
代表作
ピカソの代表作には、キュビスムを代表する《アヴィニョンの娘たち》(1907年)や、スペイン市民戦争の悲劇を描いた《ゲルニカ》(1937年)があります。
彼はアンリ・マティスやマルセル・デュシャンと共に、20世紀初頭の視覚芸術の革新を担いました。その影響は絵画だけでなく、彫刻、版画、陶芸など、広範囲にわたります。
ピカソの作品は時代ごとに「青の時代」(1901-1904年)、 「ばら色の時代」(1904-1906年)、 「アフリカ彫刻の時代」(1907-1909年)、 「分析的キュビスム」(1909-1912年)、 「総合的キュビスム」(1912-1919年)と分類され、多くの解説や議論の対象となっています。
2015年には《アルジェの女たち》がオークションで約1億7900万ドル(約215億円)で落札され、オークション史上最高額を記録しました。彼の作品は今後も価値を高めていくと見られています。
【重要ポイント】
- 前衛芸術キュビスムの創設者
- 代表作品は「アヴィニョンの娘たち」と「ゲルニカ」
- 一般的に「青の時代」「ばら色の時代」「アフリカ彫刻の時代」「キュビスムの時代」で解説される
【アート市場の動向】
ピカソ作品の中でも、2015年5月11日にニューヨークのクリスティーズで競売にかけられ、1億7900万ドルという膨大な金額で落札された《アルジェの女たち》が、現在最も高額で取引されています。
その他にも、2013年には《夢》が1億5500万ドル、《パイプを持つ少年》が2004年にサザビーズ・ニューヨークで1億3000万ドル、《裸婦と観葉植物と胸像》が2010年5月4日にサザビーズ・ニューヨークで1億1550万ドルで落札されるなど、ピカソの作品は驚異的な値段で取引されてきました。また、2006年5月3日にサザビーズで1億1180万ドルで落札された《ドラ・マールと猫》もその一例です。
2017年5月17日、エルサレム・ポスト紙は、ナチスによって略奪されたパブロ・ピカソの名画が、一般販売で4500万ドルという驚くべき価格で購入されたことを報じました。これにはクリスティーズで出品された1939年の『青い服の座っている女性』も含まれます。
また、2018年にはロンドンのサザビーズで、1937年の作品であるマリー・テレーズ・ウォルターの肖像画《ベレー帽とチェックドレスの女性》が4980万ポンドで落札されました。
日本の実業家でアートコレクターの前澤友作は、ファッション通販サイトZOZOTOWNを運営する中で、2016年秋に《女性の胸(ドラ・マール)》を2230万ドルで購入しました。
ピカソの代表作・モデル
代表作の表題
- 人生
- 老いたギター弾き
- サルタバンクの家族
- アヴィニョンの娘たち
- ドラ・マールと猫
- 鏡の前の少女
- 泣く女
- おもちゃの舟で遊ぶ少女(マヤ・ピカソ)
- 花を持つ女
- 夢
- ヌード、観葉植物と胸像
- アルジェの女たち
- 母と子
- シカゴピカソ
- 読書
- 黒椅子の上のヌード
- ゲルニカ
- 女性の胸像(マリー・テレーズ)
- 朝鮮の虐殺
- マンドリンを弾く少女
【幼少期から芸術への旅】生い立ち
パブロ・ピカソは、1881年10月25日にスペインのアンダルシア州マラガで誕生しました。洗礼時には、パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダードという、なが~い名前を付けられました。これはスペインの習慣に従ったもので、父のルイス(Ruiz)と母のピカソ(Picasso)の名字も加わりました。
パブロは中流階級の家庭に生まれ、父のルイスは画家で美術学校の教師であり、美術館も経営していました。ピカソは幼い頃から絵を描くのが得意で、7歳のときには父から専門的な指導を受けました。
失意と転機
1895年、ピカソは7歳の妹を病で亡くし、その悲しみにさいなまれました。その後、一家はバルセロナに移り、父は美術学校の教職に就きました。父はピカソがラ・ロンハ校の入学試験を受けられるように尽力し、ピカソはわずか13歳で合格しました。
芸術への情熱
その後、マドリッドに移り、ピカソは美術館で名画を鑑賞しました。特にエル・グレコの作品に影響を受け、後に彼の絵画にもその影響が現れることになります。
ピカソの革新的な時代:1900年以前
ピカソの芸術の萌芽
ピカソの父親からの芸術指導は、1890年以前から始まっていた。
彼の絵画の起源は、バルセロナのピカソ美術館に保管されている初期の作品からたどることができます。
1893年ごろのピカソの初期作品はまだ未熟でしたが、1894年以降、質が急速に向上し、彼が本格的に画家としてのキャリアを追求し始めたことを示しています。
1890年代半ばからのアカデミックな写実主義は、彼の妹ローラを描いた作品などに明確に表れています。
ピカソのモダニズム時代の幕開け
ピカソの絵画には象徴主義の影響が現れ、それによりモダニズム時代(1899-1900年)が始まりました。
ピカソはダンテ・ゲイブリエル・ロセッティやテオフィル・アレクサンドル・スタンラン、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックなどの象徴主義と古典主義の要素を融合させた独自の絵画を制作しました。
パリへの旅とジャコブとの出会い
1900年、ピカソはパリへ旅立ちました。そこでジャーナリストで詩人のマックス・ジャコブと出会い、彼からフランス語や文学を学びました。
二人はアパートを共有し、ピカソは夜に制作し、ジャコブが昼間仕事に出かける間に休息しました。
この時期は困窮と落胆の時期で、二人が制作した作品の一部は暖を取るために燃やされたと言われています。
マドリードでの活動
1901年の最初の5ヶ月間、ピカソはマドリードに滞在し、アナーキストの友人とともに雑誌『Arte Joven』を発行しました。
青の時代の幕開け
《人生》(1903年):青の時代の集大成
「青の時代」と称されるピカソの時代を象徴する《人生》(1903年)。左にはカザジェマスと愛人ジュルメール、右には子供を抱く痩せた母親が描かれ、その間に失意と絶望が漂う二つの絵画が配置されています。
青の色調の時代
ピカソの『青の時代』(1901-1904年)は、青や緑を主調とし、暖色系の色彩をわずかに混ぜた、悲嘆に満ちたくすんだ絵画が特徴で、1901年初頭のスペイン滞在または後半のパリ移住時に始まりました。
この時期には、バルセロナとパリを行き来しながら、母親と子供をテーマにした作品が多く制作されました。
また、娼婦や貧困層を描くなど、時には陰鬱な雰囲気を醸し出し、青を基調とした印象的な作品が数多く誕生しました。
感情の吐露と喪失の影響
この時期、ピカソはスペイン旅行や友人カルロス・カサヘマスの死に打ちのめされており、特にカサヘマスの死後、1901年の晩夏からサジェマスを描いた作品が多数制作されました。
1903年には、青の時代の終焉を飾る傑作である《人生》を完成させ、次なる躍動感に満ちた『ばら色の時代』へと進んでいきました。《人生》は現在、アメリカのクリーブランド美術館に収蔵されています。
『青の時代』の代表作には、目の見えない男性と目の利く女性が食事をする様子を描いた銅版画《貧しき食事》(1904年)、《ラ・レスティーナ》(1903年)、《盲人の食事》(1903年)などがあり、盲目はこの時期のピカソ作品で繰り返し登場するモチーフとなっています。
ばら色の時代の輝き
ピカソの「パイプを持つ少年」(1905年)
「ばら色の時代」(1904-1906年)は、オレンジやピンクの鮮やかな色彩と、サーカス団員や曲芸師、ピエロなどのモチーフが特徴の時代です。特にピカソの個人的なアイコンとして登場するチェック柄のピエロは、この時代の象徴と言える存在です。
ピカソとフェルナンド・オリヴィエの出会い
1904年、パリでピカソはボヘミアン・アーティストのフェルナンド・オリヴィエと出会います。オリヴィエは多くの「ばら色の時代」の絵画に登場し、暖色系の色調はフランス絵画だけでなく、オリヴィエとの関係によるものです。
ゴソルの村での創作活動
恋人オリヴィエと共に滞在したスペイン、カタルーニャ高原のゴソルでは、黄土色系のバラ色が多用され、この色が後に「ばら色の時代」と呼ばれるようになりました。
ガートルード・シュタインとの関係
1905年頃、ピカソはアメリカのコレクターであるレオ・シュタインとガートルード・スタインに特に好評を得ました。ガートルードはピカソの作品を購入し、彼の主要なパトロンとなりました。
カーンワイラーとの関わり
1907年、ピカソはダニエル・ヘンリー・カーンワイラーが開設した画廊に所属しました。カーンワイラーはキュビスムの最初の支援者であり、ピカソを含む多くの画家のキャリアを発展させました。
アフリカ彫刻の影響
ピカソの「アヴィニョンの娘たち」(1907年)
ピカソの「アフリカ彫刻の時代」(1907-1909)は、《アヴィニョンの娘たち》で幕を開けます。作品の右側には、アフリカ彫刻の影響を受けた2人の女性が表情豊かに描かれています。
キュビズムの到来
キュビズムの初期、具体的には分析的キュビズム(1909-1912年)は、ピカソとジョルジュ・ブラックによって発展されました。このスタイルは茶色や中間色のモノクロで特徴づけられ、《マンドリンを持つ少女》などが代表的な作品です。
キュビズムの表現
キュビズムは、物体を分解し、断片的に再構成するスタイルで、ポール・セザンヌの影響を受けています。この手法により、多面的な視覚効果が可能になり、万華鏡のような感覚を生み出します。
身近なものの導入
総合的キュビズム(1912-1919年)
この時期、ピカソは日常的な素材を絵画に取り入れました。新聞の切り抜きやロープなど、日常の断片が絵画の中に導入され、コラージュとして組み合わされます。この手法は、新しい対象を生み出すための先駆けとなりました。
友人との交流
ピカソはこの時期、モントマルテやモンパルナスにおり、アンドレ・ブルトンやギョーム・アポリネール、アルフレッド・ジャリ、ガートルードなどの著名な友人と交流しました。アポリネールは《モナリザ》の盗難事件に巻き込まれますが、ピカソとともに後に無罪とされました。
新古典主義への興味
1917年、ピカソはイタリアを訪れ、新古典主義スタイルの作品に取り組みます。この時期の作品は、古典的な要素を取り入れた普遍的な美を追求しました。
シュルレアリスムの時代
1925年、アンドレ・ブルトンはシュルレアリスムの雑誌『シュルレアリスム革命』でピカソをシュルレアリストとして認定し、「アヴィニョンの娘たち」をヨーロッパに初めて紹介しました。
初期のシュルレアリスム
1925年、初めて開催されたシュルレアリスム・グループの展覧会に参加したピカソは、まだキュビズムのスタイルを保っていました。展示された作品は、オートマティズムの概念に基づき、心の自由な表現を示していましたが、まだその表現は完全には成熟していませんでした。
シュルレアリスムへの回帰
ピカソのシュルレアリスム時代は、古典主義からプリミティヴィズムやエロティシズムへの回帰を経ています。1930年代には、ミノタウロスが作品のモチーフとして現れ、シュルレアリスムとの接点から象徴的な意味を持ちました。このシンボルは後に「ゲルニカ」にも登場します。
「ゲルニカ」の誕生
「ゲルニカ」はおそらくピカソの最も有名な作品であり、スペイン市民戦争時のゲルニカ空爆を描いています。この作品は非人間的な残虐さと戦争の絶望を表現し、ニューヨーク近代美術館で長期間展示された後、1981年にスペインに返還され、現在はマドリッドのプラド美術館で展示されています。
展示と移動
1992年には、ソフィア王妃芸術センターが開館し、「ゲルニカ」はそこに移されて展示されました。
ナチス占領時代
第二次世界大戦中、パリがドイツ軍に占領されたときでも、ピカソはパリにとどまっていました。
芸術的な抑圧
ピカソの芸術スタイルはナチスの理想とは一致せず、そのためこの時期、ピカソは作品を展示することができませんでした。彼はしばしばゲシュタポから嫌がらせを受けました。
スタジオでの活動
アパートの家宅捜索中、将官たちはピカソの作品「ゲルニカ」の写真を見て、「これはあなたの作品か?」と尋ねましたが、ピカソは「いいえ、あなたたちがやった(空爆)」と答えました。それでもピカソは、スタジオで作品の制作を続けました。
芸術への抵抗
ドイツ当局がパリでブロンズ像の制作を禁止したとしても、ピカソはフランスのレジスタンスからブロンズを密輸して彫刻を制作し続けました。
文学的な活動
この時期、ピカソは芸術の代わりに詩を書くこともありました。彼は1935年から1959年までに300以上の詩を制作しました。これらの作品の多くは無題で、内容はエロティックでスカトロジー的なものもあります。
戦後
新しい関係
1944年、パリが解放されると、ピカソは63歳で、画学生のフランソワーズ・ジローとの関係を持ち始めました。彼女はピカソより40歳も若かったです。
裏切りと衝突
ピカソは以前のパートナーであるドラ・マールとの関係が悪化しており、ジローのもとに身を寄せ、1947年にクロード、1949年にパロマという2人の子供をもうけました。
壮絶な別れ
ジローはピカソの身体的虐待や、彼が別の女性と関係を持っていることを暴露した後、彼女は独立を求めてパリに移住しました。
激しい反応
しかし、ジローが他の男性と結婚し、芸術活動を続けると、ピカソは激怒し、彼女が再び絵を描くことを支援しないようにギャラリーに圧力をかけました。
晩年のピカソ
ピカソは1949年に、フィラデルフィア美術館で開催された「第三回国際彫刻展」で彫刻作品を展示しました。
画風の変化
1950年代に入ると、ピカソは再び画風を変え、ベラスケスの「婦人たち」をモチーフにした作品など、古い画家の作品を模倣しました。
「シカゴ・ピカソ」の制作
ピカソは、シカゴに50フィートの巨大な公共彫刻を制作することに熱心に取り組みました。これが一般的に「シカゴ・ピカソ」として知られる彫刻です。
作風の変化
ピカソの晩年の作品には、さまざまな技法が混在し、日常的に作風が変化しています。彼は精力的に作品を制作し、大胆で緻密、かつ原始的な作品へと変貌を遂げていきました。
ピカソの死
1973年4月8日、パブロ・ピカソはフランスのムージャンで92歳で亡くなりました。彼はエクス・アン・プロヴァンス近郊のヴォヴナルグ城に埋葬されました。
ピカソの遺産
ヴォヴナルグ城は、ピカソが購入し、一時的にジャクリーヌ・ロックと住んでいた場所でした。ピカソの多くの作品がここに保管され、城は彼の個人美術館のような雰囲気を持ちました。
ジャクリーヌ・ロックの悲劇
ピカソの死後、ジャクリーヌ・ロックは精神的な苦しみに悩まされ、1986年に自殺しました。
ピカソの政治的見解
スペイン人民戦線派への関与
ピカソは1900年代にカタルーニャの独立運動に関わり、公然とその支持を表明していました。しかし、フランス在住であったため、独立運動には距離を置いていました。
戦争への関与と政治的立場
ピカソは第一次世界大戦、スペイン市民戦争、第二次世界大戦には直接参加しませんでした。当時、フランスに住んでいたため、ドイツによる侵略に対する戦闘義務はありませんでした。また、1940年にフランス国籍を申請した際、共産主義の過激な思想を理由に却下されました。
スペイン市民戦争への関与と作品の制作
スペイン市民戦争勃発時、ピカソは政府からプラド美術館の館長に指名され、美術品の避難計画に関与しました。この戦争は、ピカソの政治的作品に影響を与え、彼は「フランコの嘘と夢」という作品を制作しました。
共産主義との関わり
1944年に共産党に加入し、1950年にはスターリン賞を受賞しました。しかし、1953年にはスターリンを描いた絵でソ連の政策に批判的な姿勢を示しました。
ダリとの関係
ピカソとダリの関係は、ピカソの共産主義的信念に関して議論を引き起こしました。ダリはピカソとは異なる立場を取っており、彼の共産主義に反対の立場を表明しました。
朝鮮戦争への反対
ピカソは朝鮮戦争に反対し、その大虐殺をテーマにした作品を制作しました。これはアメリカの残虐行為に反対する彼の共産主義的立場を反映しています。
スタイルと技術
膨大な作品数
ピカソは数多くの作品を生み出しました。絵画、彫刻、陶器、ドローイングなど、さまざまなジャンルで約5万点の作品を制作しています。
絵画の重視と技術
ピカソは絵画を特に重視し、大胆な色彩と物理的な特徴、空間の配置を慎重に考えて描きました。また、砂を混ぜるなど、独自の技術を用いて作品を制作していました。
革新的な彫刻作品
初期の彫刻作品は木やワックス、粘土で作られていましたが、後に金属板やワイヤーなどの様々な素材を用いた革新的な彫刻作品を制作しました。
多様な芸術スタイルの探求
ピカソはキャリア初期から様々な芸術様式に興味を示し、それらを自身の作品に取り入れていました。彼の作品は印象派、キュビズム、フォービスム、シュルレアリスムなど、さまざまなスタイルの影響を受けています。
自伝的な性格と作品
ピカソの作品は自身の経験や関心から生まれており、彼の個人的な物語が作品に反映されています。また、彼の作品には制作日時が常に記されており、その自伝的な性格が表れています。
記号論の革新
ピカソは時代のトレンドである記号論を絵画や彫刻に取り入れ、言葉や形態、オブジェクトの相互作用を新たな視点で探求しました。
彫刻作品の革新
彫刻作品《バブーン》では、猿の頭がおもちゃの自動車に変容し、言葉を用いないイメージによる換喩表現を実践しました。
言葉と形態の融合
ギターを5つの平行な弦で描くなど、ピカソは言葉と形態の融合を試みました。例えば1911年の絵画《パイプラックとテーブル上の静物》では、海を描く代わりに単語”ocean”を用いました。
評価と収蔵
ピカソの芸術は、生前から賛否両論を呼んでいました。
批評の二面性
1939年のMoMAでの回顧展では、『Life magazine』が「ピカソは25年間のヨーロッパの美術に大きな貢献をしたが、彼を批判する者たちは彼を堕落した影響力を持つと見なした。同様の激しい評価を持つピカソの友人たちは、彼を生涯を通じて最も偉大な芸術家とみなした」と報じています。
所蔵と収集
ピカソは多くの作品を所有しており、その多くは売らず市場価格を維持するためでした。また、他の有名な現代美術家の作品も収集していました。現在、彼の作品の大部分はパリのピカソ美術館に所蔵されています。
ピカソ美術館
バルセロナのピカソ美術館では、ピカソの初期作品に焦点を当てており、彼の技術の基盤を垣間見ることができます。父親の指導のもとで少年時代に制作された人物画や、親友であるジャウマ・サバルテスのコレクションも展示されています。
《ゲルニカ》の移動
《ゲルニカ》は長年、ニューヨークの近代美術館で展示されていましたが、1981年にスペインに返還され、マドリードのプラド美術館に展示されました。1992年にはマドリードに国立ソフィア王妃芸術センターが開館し、《ゲルニカ》は同センターに移されました。